甲斐宗運夫婦の墓(御船町邊田見)

甲斐宗運は御船城主甲斐大和守親宣の子にして、幼名を親直と穪せり、後阿蘇殿より惟の字を賜り惟親と改め叉入道宗運と穪す。後柏原天皇の大永六年に御船城主御船阿波守房行阿蘇家に叛せし時、父親宣とともに、阿蘇惟豊の下知を受けて房行を討ち之を苦見坂(軍見坂)に敗り戦功を著せり。後親宣の後を承けて御船城主となり、民部太輔に任せられ 御船の地千町を領有し、阿蘇家のために隈庄、託麻原、響ヶ原等に轉戦す、御船城の戦と合せて四大合戦となす。戦へば勝ち攻むればとる、饒名四隣を壓し、正親町天皇天正十一年七月五日卒す享年七十五歳なり。

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